目を澄ませて

ノートに書く鉛筆の擦れる音、電車の音、車の音などの日常の音。ミッド打ちの音。フォークギターのぽろんという音。
静かな中にそれらがあるだけで、音楽などなくても十分音楽だった。ケイコが聴こえないから、より一層、私たちは注意深くなる。

風景も十分に美しかった。川に反射した光のゆらめき、高架下に現れる電車の断続的な光、路地に入る階段を斜め上から照らす街灯の光。
加えて、ボクシングジムでの粉塵の煌めく光。
発見された日常の光が閉じ込められていた。

光や音が日常とボクシングにおいてのどちらでも誇張されてないからこそ、ボクシングが決して特別ではなく、そうした日常の延長にあるように思える。経験がなくても、ミッドの音、サンドバックの音、息遣い、かわす時に空気を切る音、とても鮮明に現実として映る。

そうした現実の中にケイコが強さも弱さももって描かれることによって、自然とこちら側の背中をそっと押してもらったような気持ちになる。

 

葛藤している時に弟に話した方がスッキリするよと言われるが、解決するわけじゃないから、と話さない、ケイコ。その悶々とする気持ちを独り、ノートに書き殴る。リングの上でひとりで誰の声も手も借りず、戦わなければならないケイコにとって、独りで解決しようとすることは日常だった。

辛くなったら、頼ってもいい。人に話して楽になって。もちろんそれは必要なことだ。けれども、人間は誰しもリングの上に独りで上がる強さをどこかにもっているはずだと思う。これがコロナ禍という時代背景のもとに描かれたのも無関係だとは思えない。

ひとり、を痛感させたれたコロナ禍。けれども、リングの外でケイコが会長や、母や弟や職場の人に支えられていたように、その時、その場にいなくとも多くの人に支えられていることを私たちは知っている。そして、なにかに潜るようにして取り組む時の満たされる感じも。


繋がっていないと不安を感じるようなこの世の中に、リングに、それでもひとりで立つための後押しを、寡黙に戦うということの美しさを、ケイコの拳が投げかけてくれているように感じた。

 

ケイコ 目を澄ませて

見た後、自分の目も耳も澄んでいくような感性をもった映画だった。