水の中で

他者との関わりの中で、ふと悲しくなる時がある。随分前に、わたしが友人と2人で、別の友人の話をしていた時、その友人が最後に、ま、本人がいいならいいんじゃない、と締めくくった。その時すごく、ぞっとして、その友人のことが怖くなった感覚が今でも忘れられない。

その後、自分の部屋でひとりきりになり、その理由を考えていた。その子は、友人の意見を尊重している、決めるのは自分だから、という態度を示していて、間違ってはいないように思える。そのことを頭では理解はできる。でももしそうだとして、私たちがもつこの関わりは一体なんなんだろうと思った。

水泳の授業の時、宝探しと題してばら撒かれた、あの物体たちのようだ。ただ、底に沈み、なにも発さず、誰にも見つけられず取り残された彼らを想像した。悲しい、寂しい、虚しい。

なにが正しいとか間違ってるとかいうこと自体存在しないこともある。ひとによって解釈の違いはある。正しいとか間違ってるとかで議論するから戦争は起こるし、いつまで経っても無くならない。この世の中に悪い人も良い人もいない。もちろん最後に決めるのは、彼女だ。わたしに決定権はない。けれども、大切にしなくちゃならないことの話はできるのではないか。

SNSで繋がっていることよりも、LINEで毎日会話することよりも、大切で、なんならこんなちっぽけな充電しなければ繋がれない機器など、意味をなさない。本来、人間間の繋がりは、物理的エネルギーを要さない。会ってなくても、聞こえなくても、見えなくても、その人のことを考えることはできるはずだ。

自由の尊重と、無責任な放棄は違う

その言葉にはっとさせられた。自由を提示するような顔で関わり合いを放棄したことに、ぞっとしたのだ。

でもこれを糾弾したいわけではない。良い悪いの話ではなく、誰しもの日常に潜んでいることだ。著者が電車で高齢者に席を譲ることを考え、最初から座らないようにしていると触れており、同じだ、と思った。特に知らない他者と関わることは、時に乗車中、立っていることよりも気力がいる。

あなたがもっと自由になるために、あなたを気にかける。わたしがもっと自由になるために、わたしを気にかける。ともに考えるということ自体を、気にかける。

プールの底に沈んでいても、私たちは同じ水を共有している。私たちは宝物と違って、動ける。少し動けば、水がゆらぐ。そのゆらぎが、その人にとって良いものになるように、もがきたい。いざ、アウフヘーベン

両方からみえる景色を観察しながら、誰の味方、誰の敵でもなく、同じ水の中にいるという著者の言葉、文章が美しくて柔軟でときにふふ、となる。著者の水中よりみる景色の解像度が高くて、細かくて、ゆえに日常そのもので、お守りにして、ぺらぺらめくりたくなる。そんな本でした。

 

#水中の中の哲学者たち/永井玲衣