快と不快

友人がみてきた展示の話をしてくれた。

まず、快と不快について。人間は快よりも不快に敏感らしい。お皿が割れる音、救急車のサイレン、都市ガスの臭い、緊急速報の通知音、アプリのアイコンの右上に出る赤い通知の数を示すもの。気づかないうちに我々の周りは不快でデザインされている。

エナジードリンクが不味いのも、良薬は口に苦しとよく言ったもので、その方が効いていると脳が錯覚するのを利用しており、インスタにたまに広告が挟まるのも、不快を促しその後気に入った投稿に出会えることでより達成感を得られることを利用しているという。

また、近頃レコードやカセットテープで音楽を聴くことが再燃している。(わたしもそのひとりである。)世の中が、便利すぎるのだ。なにか少しでも不快を感じたいのだろう。快しかないのもつまらない。快は初めはいいかもしれないが、次第に退屈さを生む。

完璧な快は不快。

なんというジレンマか。嫌なところなんかひとつもないよ。とか言われると逆に不安になるような。そんな感じ。だからか最近、紙と鉛筆だけで描かれた作品などみると安心する。真っ暗すらも描けないからノイズになるが、どういう筆跡で塗りつぶしているのかみるのが楽しい。話もわかるようなわからないようなそんな感じだが、日々の解像度が高い人であることがわかる。その中の意思は伝わってくる。快と不快の心地よいバランス。どちらも必要なのだろう。

どっちが良くて、どっちが悪いなどこの世の中には本当になくて、ただどっちもをあ、きみもいるね、あ、あなたもきたんだねと、包んであげられるような、そんな大きな風呂敷みたい世であれば、それで十分素敵なのかもしれない。

とか、なんとか。大それたが、様々な人の目になれるそんな知見を身につけたいね、学ばなきゃだねと、知人宅でだらだらして、ようやくお暇しようとドアを開けると外は雨。空気中の水分が生み出す、日常におけるささやかな抵抗。夜の誰もいない下り坂を自転車で勢いよく進む。濡れた薄いズボンが足にまとわりつき、メッシュの靴が水をぐんぐん吸い込む。道路を走る車はどの深夜よりも早い気がして、いや、水が抵抗しているからかとぼんやり思う。そんな快と不快を堪能した深夜だった。

水の中で

他者との関わりの中で、ふと悲しくなる時がある。随分前に、わたしが友人と2人で、別の友人の話をしていた時、その友人が最後に、ま、本人がいいならいいんじゃない、と締めくくった。その時すごく、ぞっとして、その友人のことが怖くなった感覚が今でも忘れられない。

その後、自分の部屋でひとりきりになり、その理由を考えていた。その子は、友人の意見を尊重している、決めるのは自分だから、という態度を示していて、間違ってはいないように思える。そのことを頭では理解はできる。でももしそうだとして、私たちがもつこの関わりは一体なんなんだろうと思った。

水泳の授業の時、宝探しと題してばら撒かれた、あの物体たちのようだ。ただ、底に沈み、なにも発さず、誰にも見つけられず取り残された彼らを想像した。悲しい、寂しい、虚しい。

なにが正しいとか間違ってるとかいうこと自体存在しないこともある。ひとによって解釈の違いはある。正しいとか間違ってるとかで議論するから戦争は起こるし、いつまで経っても無くならない。この世の中に悪い人も良い人もいない。もちろん最後に決めるのは、彼女だ。わたしに決定権はない。けれども、大切にしなくちゃならないことの話はできるのではないか。

SNSで繋がっていることよりも、LINEで毎日会話することよりも、大切で、なんならこんなちっぽけな充電しなければ繋がれない機器など、意味をなさない。本来、人間間の繋がりは、物理的エネルギーを要さない。会ってなくても、聞こえなくても、見えなくても、その人のことを考えることはできるはずだ。

自由の尊重と、無責任な放棄は違う

その言葉にはっとさせられた。自由を提示するような顔で関わり合いを放棄したことに、ぞっとしたのだ。

でもこれを糾弾したいわけではない。良い悪いの話ではなく、誰しもの日常に潜んでいることだ。著者が電車で高齢者に席を譲ることを考え、最初から座らないようにしていると触れており、同じだ、と思った。特に知らない他者と関わることは、時に乗車中、立っていることよりも気力がいる。

あなたがもっと自由になるために、あなたを気にかける。わたしがもっと自由になるために、わたしを気にかける。ともに考えるということ自体を、気にかける。

プールの底に沈んでいても、私たちは同じ水を共有している。私たちは宝物と違って、動ける。少し動けば、水がゆらぐ。そのゆらぎが、その人にとって良いものになるように、もがきたい。いざ、アウフヘーベン

両方からみえる景色を観察しながら、誰の味方、誰の敵でもなく、同じ水の中にいるという著者の言葉、文章が美しくて柔軟でときにふふ、となる。著者の水中よりみる景色の解像度が高くて、細かくて、ゆえに日常そのもので、お守りにして、ぺらぺらめくりたくなる。そんな本でした。

 

#水中の中の哲学者たち/永井玲衣

秘密兵器の末っ子

我が家には秘密兵器と呼ばれる末の弟がいる。母方の祖父に似て、自由人で昔から好きなことをとことんやり込むような弟だった。

物持ちの良すぎる叔母から貰ったドラえもんの漫画は弟によって、繰り返し読み返され全巻ぼろぼろであった。何度も開いたせいかページが分解されていた。(聞くところによると、私が読んでたものも一通り読んでいたと言う)

その後、A4サイズの紙一枚を切って本にする棒人間漫画が描かれ(棒人間しか出てこず、最後に主人公が必ず天に召される)引き出しから溢れるほどになっていた。

ホームアローンにはまった時は、留守番の際に紙や紐で工作した仕掛けを作って、母を待っていたが、玄関の天井に吊るした仕掛けの粘着が母が帰宅するまで耐えられそうなく、母に早く帰ってきて!と電話し、一体何事かと母を驚かせた。(玄関を開けるとともに母は事態の全貌を理解した)

そんな弟は今、Twitterで1日に2回(朝晩)に絵を投稿しており、サブスクを開設し、三兄弟の誰よりも早く親の扶養から外れ、独立を果たした。その投稿ももうすぐ一年になると言う。

私には日課というものがほとんどない。弟にえらいなーというと、日課だからと答えられた。2ヶ月続ければ続けたという功績を手放したくなくて、大抵のことは続けられる。もちろん自分は学生の身分で時間を自分のために使えるという環境のおかげもあるが、イレギュラーの予定が入ったとしても続けることを考える。クオリティよりも続けることを選ぶ。何もやっていないより、ましであるから。

私の場合、続けることが目的化することを恐れて、ちゃんとしなくちゃと思いながら、結局手を出すのが億劫になり、何も続いていない。手を動かす前に意味を考えようとするからだ。

いや、なんだかよく聞く話ではある。ハードルを下げてでも日々やってみましょう。続けてみましょう。実用書などでたまに目にして、誰がこんなん買うんだと思ってしまっていたけれど、何故だろう。弟の言葉はその文字列よりも信憑性を帯びており、素直に尊敬できた。(一方でこの文字列はさも胡散臭いことだろう)

私にも家族の誰にも縁のないアニメ調の絵を日々描き続けて1周年を迎える弟はそれと同時に20歳の誕生日を迎える。

絵描くのが楽しいのか聞くと、全体の1割しか楽しくないという。なんだかよくわからず笑ってしまったが、なーんだ!と安心したのも事実である。それでも一年続ける決心をした弟は凄いし、私にとって励みになった。

そんな弟が絵を続けるのかは分からないが、我が家の秘密兵器として何かしらの活動を続けるだろう。部屋から食べ終わって放置されたヨーグルトの容器2つ(一昨日と昨日の分)が発掘されるような生活を送る秘密兵器だが、私はこれから何度も励まされることだろう。

目を澄ませて

ノートに書く鉛筆の擦れる音、電車の音、車の音などの日常の音。ミッド打ちの音。フォークギターのぽろんという音。
静かな中にそれらがあるだけで、音楽などなくても十分音楽だった。ケイコが聴こえないから、より一層、私たちは注意深くなる。

風景も十分に美しかった。川に反射した光のゆらめき、高架下に現れる電車の断続的な光、路地に入る階段を斜め上から照らす街灯の光。
加えて、ボクシングジムでの粉塵の煌めく光。
発見された日常の光が閉じ込められていた。

光や音が日常とボクシングにおいてのどちらでも誇張されてないからこそ、ボクシングが決して特別ではなく、そうした日常の延長にあるように思える。経験がなくても、ミッドの音、サンドバックの音、息遣い、かわす時に空気を切る音、とても鮮明に現実として映る。

そうした現実の中にケイコが強さも弱さももって描かれることによって、自然とこちら側の背中をそっと押してもらったような気持ちになる。

 

葛藤している時に弟に話した方がスッキリするよと言われるが、解決するわけじゃないから、と話さない、ケイコ。その悶々とする気持ちを独り、ノートに書き殴る。リングの上でひとりで誰の声も手も借りず、戦わなければならないケイコにとって、独りで解決しようとすることは日常だった。

辛くなったら、頼ってもいい。人に話して楽になって。もちろんそれは必要なことだ。けれども、人間は誰しもリングの上に独りで上がる強さをどこかにもっているはずだと思う。これがコロナ禍という時代背景のもとに描かれたのも無関係だとは思えない。

ひとり、を痛感させたれたコロナ禍。けれども、リングの外でケイコが会長や、母や弟や職場の人に支えられていたように、その時、その場にいなくとも多くの人に支えられていることを私たちは知っている。そして、なにかに潜るようにして取り組む時の満たされる感じも。


繋がっていないと不安を感じるようなこの世の中に、リングに、それでもひとりで立つための後押しを、寡黙に戦うということの美しさを、ケイコの拳が投げかけてくれているように感じた。

 

ケイコ 目を澄ませて

見た後、自分の目も耳も澄んでいくような感性をもった映画だった。

クリスマスの贈りもの

服を買うという行為が商品を購入すること、でしかなかった。選んで、着てみて、自分と対話し、財布と対話し、決める、といった流れで、それはそれで楽しい。誰かの意見に流されるでなく、自分の感性に忠実に買い物ができている気がするから。

基本的に店員さんと話すのは疲れる。売りつけてやろうという魂胆が見えるとさらに疲れる。言葉が意味をなさず、わたしに降りかかり、その音が服との対話を遮断する。

けれども、一方で店員さんという友達に会いに行くようなお店があることを知った。ぐだぐだと関係のないことを立ち話しながら(もはや服をみる余地がない程に喋る)ついでにのように、服を手に取り選ぶ。喋って、着て、そのまま喋り、試着していることをうっかり忘れてしまう。

この時間がとても好きだ。言葉がちゃんと言葉であることが嬉しい。降りかかる言葉でなく、贈りもののような言葉。

街中が浮き足立つクリスマス。世間にはこんなにもカップルがいるのかと驚く群れの中、人に当たらないよう黄色いニットの覗くショッパーを抱えながら、ひとり歩く。目に見えない繊細な贈りものたちを守る思いで、足早に。

少し寒くて温かい。そんな1日だった。

対話

一卵性双生児であっても性格が異なるのは何故なのか、何が人間性をつくるのか、という話を聞いたことがあるだろうか。

人間性を形成する半分は遺伝子、もう半分は環境だとされている。外界とのやり取りを経ることで自己を形成している。

建築も生物であるような気がした。

今日、石井修さんの初期作品である、西向きの家を見学させていただいた。石井修さんの建築というと外部の自然と共生するような印象があったが、西向きの家は明らかに建築自体が力強さをもって、そこに佇んでいた。

内部からみえる西向きの景色には、当初はなかったであろう建物が映り込みながらも、その土地の高低差から、都市の変化を達観するような距離感をもっていた。それは、外部を無視せず対話はする。けれども依存はしない。といった、節度ある距離感だった。

思い返せば、他の作品も内部に環境をつくり出している。それは、建築のもつ力を担保するための手法のように思われた。

一方で、周囲に対する一種の諦めのようなものにも映る。

風景を取り込むことで外から中へのベクトルを享受し、溢れ出す緑や角の銀杏の木が内から外へのベクトルを担い、それが外界とのやり取りなのだろうか。

周辺環境を信じることが危うい中、閉じた中に環境をつくり出すことは賢明なのかも知れないと思う一方で、そのことがどこか淋しい感じがする。馴れ合うのも違うが、そうした都市の現状が只々もどかしい。

あと、この特異な形態をした生物を生かすには多額の資金が必要であり、残ることへの危うさを孕んでいる。町家が残り、複雑なものが残らない理由がよく分かる。

寒さに震えながらそんなことを話した。雨が降ったり止んだりと決まりきらない灰色の今日だった。

 

 

 

記憶に残る手段

記憶に残るもの、感動するもの。

ある芸人さんは脚本を書く時、他の芸人さんのコントを見ながら次の言葉を予想し、その先の予想し得ない末端の言葉を見つけるらしい。

坂元裕二さんの作品も確かにそうで、すぐ裏切る。対義語かと思いきや少し違う。

オルジャティ、青木淳の建築もそうらしい。

オルジャティは片側から見るとアンバランス、もう片側から見てようやくわかるような構造をとり、青木淳は自分で設定した論理からジャンプしている。

いわゆるスイス的な合理主義の建築とは違う。これは、さわやかさ、とも繋がる話だと思う。分かりやすいものは、つまらないものだ。すぐに理解した気になり、日常に溶ける。

そう思う一方で、溶けて何が悪いとも思う。

建築はエンタメではない。芸人になる必要はない。本当に大切なのは素直さなのだろうか。少なくとも奇をてらうことではないだろう。まずは、大切なものを届けたい。耳かき一杯分かもしれないが、贈り物ができると良い。大きなことをできると思わず、ただ粛々と。記憶に残るとはプレゼントの渡し方であり、中身ではないことを理解して。

 

あと、大学院生で世間知らずな嫌悪感に駆られたことがあったが、そうでなく資本に揉まれていないからこそ見える本質があると信じたい。とメモ。