記憶に残る手段

記憶に残るもの、感動するもの。

ある芸人さんは脚本を書く時、他の芸人さんのコントを見ながら次の言葉を予想し、その先の予想し得ない末端の言葉を見つけるらしい。

坂元裕二さんの作品も確かにそうで、すぐ裏切る。対義語かと思いきや少し違う。

オルジャティ、青木淳の建築もそうらしい。

オルジャティは片側から見るとアンバランス、もう片側から見てようやくわかるような構造をとり、青木淳は自分で設定した論理からジャンプしている。

いわゆるスイス的な合理主義の建築とは違う。これは、さわやかさ、とも繋がる話だと思う。分かりやすいものは、つまらないものだ。すぐに理解した気になり、日常に溶ける。

そう思う一方で、溶けて何が悪いとも思う。

建築はエンタメではない。芸人になる必要はない。本当に大切なのは素直さなのだろうか。少なくとも奇をてらうことではないだろう。まずは、大切なものを届けたい。耳かき一杯分かもしれないが、贈り物ができると良い。大きなことをできると思わず、ただ粛々と。記憶に残るとはプレゼントの渡し方であり、中身ではないことを理解して。

 

あと、大学院生で世間知らずな嫌悪感に駆られたことがあったが、そうでなく資本に揉まれていないからこそ見える本質があると信じたい。とメモ。