低気圧

昨日は一日中大雨だった。

明日は七夕の日だ、と気がつくと天気を検索しながら、ちょっとした賭けをする。晴れだと少し嬉しく、雨だとやっぱりかーとなる。

なぜこんなに雨が多い日に七夕なんて設定したのだろう。七夕の日に晴れてることの方が稀だ。毎年、この日だけは雨であることを少しだけ憎んでしまう。

しかし、ふと見たSNSで「雨で会えなくて可哀想と言う話がありますが、2人は雲の上にいるので、むしろ地上から見えずゆっくり会えると聞いたことがあります。」との投稿を見て、屁理屈だと言う人もいるかもしれないが、なんだか幸せな気持ちになった。そうした捉え方は日々のちょっとしたことを豊かにする。

さて、七夕でさえも猛威を振るう低気圧。今日も午後は床で倒れ込んでいた。毎年、この時期になると、頭痛や眠気、時には吐き気などがあり、なんなんだと思っていたが、多分こいつのせいだ。目には見えないのに、大きな影響を与えてくる。元気に過ごせるかどうかに関わる、大事な要因であり、要因が分かっているだけで少しほっとする。

何でもそうだが、目に見えてるものは何かの結果であって、それを支える様々な要因が沢山あるのだと思う。また、結果として目に見えないが、「ある」ような要因も存在するのだと思う。結果として目に見えないものを意味のないものとするのは違う。

最近、目に見える結果しか意味がないとし、見えてることばかりになっていたと気づかされた。もう少し視野を広く、懐を広くして、目に見えないものを受け取れるようになりたい。

そうは言っても、低気圧は嫌いだ。そこは懐を広くできない。早く梅雨が明けて欲しいと願うばかりだ。

 

では、また。

あたたかいもの

明日会う友達に借りてた本のことをふと思い出して、久しぶりに物語の文庫本を読んだ。

細かいたべもののの描写がどれも瑞々しく、献立も、スタミナつけろと何日も続く餃子や、今年は勝負の年だと新学期の朝のカツ丼は、一見強引だけれど食べてくれる人への思いは真剣そのもので、その疑いのない真っ直ぐさがおかしくて愛おしくて笑ってしまう。そんな人が自分のことを思って作ってくれた料理に感じる、あたたかさや思いが詰まっている。

いま、シェアハウスをしていて、料理が上手な同居人が作るごはんは凝ったものではないが、肩の力が抜けるようなあたたかい料理でどれも本当に美味しい。ひとり暮らしの時は、携帯をいじったりテレビを見ながら食べていたが、人とおいしいねとご飯を食べる時間というのはこんなに豊かなのかとしみじみと思う。

わたしは料理は得意ではないけど、特別おいしい!はなくても、塩っぱいな!と笑われてもいいから作るのもありかなと思えた。(食べるのなら、おいしいものが食べたいが!)

人にぱぱっとおいしいものが出せるというのは人を元気にする魔法のようですごい能力だ。

今日、小さい子が幼稚園でもらったのであろう笹の葉にビニールを被せて持って帰っていた。この時期はいつも雨だが、小さい子はなにをお願いするのだろう。

料理が上手くなれますように。とこそっとお願いしたい気持ちになった。

 

では、また次回。

ことのは

はじめまして。

昔から物語や詩を読んだり、文章を書いたりすることが好きで、得意なのだと思っていました。しかし、しだいに文章を読む機会が減り、周囲の人に言葉が変と言われ、これはいかんと思い、言葉をもっと大切にしようとブログを始めました。

 

今回は言葉って大切だなと思った出来事をお話しします。

 

最近、母が料理の腕をめきめきとあげています。昔から母は料理が苦手で、雑誌などのレシピをノートに記し、毎回ノートをみながら料理をしていました。実家には現在、父と5分で完食し、席を立つほど味わうことを知らない弟しかいないのになぜだろうと思っていました。

 

引っ越してから実家が近くなったこともあり、よくご飯を作りにいく母は大変そうではありましたが、どこか楽しそうにいろんな料理に挑戦していました。祖父は自分では作りませんが、食にうるさく、「これはうまい」「これはいまいちだ」と、正直に言う人です。

 

家に祖父が来た時、祖父が「これがうまいんや」とぱくぱく食べている様子を見てなるほど、母は祖父の正直な言葉が楽しくて色んな料理を研究していたのだろうと思いました。

それは、祖父が正直な人だからなのでしょう。

良くても悪くてもちゃんと感想を伝えるからこそ、言葉が信用できる。

 

祖父は多分、ただ思ったことを言っているだけですが、その言葉は良くても悪くても母の楽しみになっています。そんな素直で正直な言葉が素敵だなと思いました。

 

そんなこんなで稚拙な文ですが、祖父を見習って、少しずつ正直に素直に言葉を書いていけたらと思います。

 

それでは、また次回。