あなろぐとデジタル

澄んだ空気に木々が黄や赤に色めき出し、外国人観光客が順調に増えていら京都でわたしは日々パソコン画面と睨めっこをしている。

ポートフォリオ、研究データの整理に追われ、引きこもり状態にある。

 

そんな中珈琲サーバーが割れた。わたしは買い替えを言い訳に恵文社に向かった。すぐ帰るすぐ帰ると唱えながら向かい、見るだけ見るだけと唱えながら本をぱらぱらとめくる。本のにおいを嗅ぐ。目が活字を撫でる。心が和らぐ。

実物を触る、あなろぐに触れるとは五感を正常な状態に引き戻してくれる。もちろん、このあなろぐたちも多くはデジタルによって作られている。しかし、デジタルとあなろぐの間には大きな隔たりがあり、明らかに別物である。

あなろぐは統一されたものでないからこそ、それぞれの雰囲気を纏っている。

恵文社には、丁寧な所作で本を手に取り、静かにページをめくりたくなるような、そんな本たちがセレクトされている。背筋がしゃんとして、それでいて無理のない、心地よい時間が流れている。

 

どちらがいいとはないが、あなろぐに触れることで、デジタルの実感が湧く。デジタルから生まれたあなろぐがあるからこそ、デジタルも大切にしようと思えた。

風吹く日

最近めっきり涼しくなった。鈴虫が鳴く。タオルケットから掛け布団になった。ご飯は焼き魚が食べたくなる。そんな秋の夜。

別れがあるし、ひとりで考える時間が長くなるし、秋風は身体の中も通り抜けるようで、それは心に穴が空いているような感じがして、勝手に淋しくなる。

しかし、最近気づいたことがある。淋しさは何も悪いことじゃない。淋しさも味わえる。苦いものを美味しいと感じるように、ビールの苦さがいつからか旨味になるように、淋しさも旨味になる。そんな、今年の秋の夜。

逃げてばかりいるこの頃。今日もまた逃げてしまった。こんな時はいつも気候のせいにしてしまう。暑いから、寒いから、秋風吹くから。それでいて、周りを見渡してみんなが物事に向き合っていると自分はと嫌悪感をもつ。違うでしょう、みんなも頑張ってるから頑張ろうね。

どんな日でも、風吹く日。それはきっと追い風です。

現代の茶室空間

瀬戸内国際芸術祭期間中に、豊島・直島に訪れた。

島々に点在するアートをみた。そして1日のうちにひとつずつ、からだの心底からぞくっとする作品に出会えた。

豊島美術館

地中美術館のモネの睡蓮

・家プロジェクトのジェームズ・タレル作品

 

それらはどれも、写真が撮れないような(撮る時間すら惜しいと思わせるような)ものだった。

まず作品の前に、カメラ・スマホ等は完全にしまうよう指示される。刀をお預け下さいと言われてるような感覚だ。

作品を前にしたとき、正面向かって対峙せざるを得ない状況になる。言わば丸腰状態。信じるものはその時その場にいる己れの感覚のみ。

それはどこか、茶室に身を置いているようだった。

 

映画、日々是好日で描かれていた、茶道を通して、茶室において日々を感じるという心。夏と冬でお湯の音が変わる。夏はさらさら、冬はとろっと。

小さくて簡素なつくりだからこそ、普段はおざなりになっている感覚の解像度をぐっと高める空間になる。

茶室に入る前に武士は刀を預け、茶室に入る際は誰しも身ひとつだったという。そうした中で得た感覚は今も昔も格別だったのではないだろうか。

今回、そうしたことが大切にされている作品がとても心地よく心に響いた。

豊島美術館で流れる水の流れる音、落ちる音、穴から吹き込む風や揺れる木々の音。

地中美術館では部屋のエッジが消され、無音の中で様々な色彩の睡蓮に囲まれるという幸せ。

ジェームズ・タレルでは身体的な制限がなされた中で視覚と時間を感じる。

 

これらは旅の中で本当に贅沢なひとときだった。感覚を研ぎ澄ます、静けさの中にある心地よさをみつけられた旅だった。

蚕を聞いたことがあるだろうか。

歴史で学ぶ、養蚕業の中で出てくる美しい白い繭をつくり出し、そこから生糸にして絹(シルク)をつくりだす昆虫である。

その蚕が、人間の遺伝子操作により、自然界には存在しない生き物であると知ったのはつい最近である。野生への回帰本能を持たず、人間の世話なしには生きていけない。そんな生き物がいるとは知らなかった。

蚕は幼虫の時にたくさんの桑の葉を食べ、何度も脱皮を繰り返し大きく成長する。その後繭の中でさなぎとなり、成虫となる。その成虫は大きな羽をもつが人間の遺伝子操作により、卵をたくさん産むために胴体が大きくなり、飛ぶことができない。また成虫になっても一切食べ物を口にすることはなく、交尾をするために動きまわり一週間もするとその天寿を全うする。

後腐れないというか、機能的で合理的であるが故にその制御されている姿が弱々しく思え、なんとも儚い生き物である。

人間の教育もこれと同じである。目的をもちそれに一直線に進む。タイパというらしいタイムパフォーマンス、効率を要求される社会。いつのまにかお腹の中に多量の卵が詰め込まれ、飛び立たなくなっていないだろうか。蚕のおかげで美しいシルクが拝めているのだ。一方で、人間たるものは感情を持つ。

繭を作りながらでも自分の背にある羽を忘れずに、飛び方に恥をかきながらでも良いから飛んで人の心をみたり感じたり思ったりすることを忘れたくない。

カツとコロッケ

ドライブ・マイカ

ひとを信じるとは、どういうことか、を考えさせられた。ひとの性格は両儀的である。一見対立しているように見えるA面・B面は同時に存在し得る。愛するひとのA面を真実だと思いこんでいたひとが、そのB面を見てしまったとき、そのひとはそれを受け取ることができるだろうか。流さず、B面に対してもA面と同じように向き合うことができるだろうか。真実などといったものは、ある地点からの見方でしかなく、そのひとの思い込みでしかない。劇中でB面を受け入れることから逃げたふたりはそのことで愛するひとを失い、それを「殺した」といい、もっと自分が強ければ、と嘆く。

もっと自分が強ければ、受け入れられた。向かい合えた。その強さとは、どうすれば獲得できるのだろう。どうしたところからくるのだろう。「A面を見た時、B面を想像する」のでは、そもそもの信じることすらできなくなってしまっている気がする。構えるのではなく、柔軟に。

その日は、燻製器でベーコンをつくるという大挑戦をするつもりだったが、何時間もかかると知り断念。がっつり気分だったので、代わりにコロッケとカツ。真っ茶色の揚げ物ばかりが並んだ。何かに挑む前のような強くなれそうなご飯だった。

 

 

マニキュア

いいもの見せてあげる

と祖母はいたずらっ子がするような笑みを浮かべた。自分の娘の顔すら忘れている祖母だが、その表情はかつて私に向けられたものと同じだった。

祖母はよくそう言って、安野光雅のきれいな絵が描かれた絵本や、水彩のクレヨンや旅先で見つけた肌触りの良い猫のハンカチをくれたりした。それは私にわくわくを与えてくれる言葉だった。

そうして祖母は椅子の上でもぞもぞと動き出し、私の方に足を見せてくれた。つま先の空いたスリッパからは瑞々しいさくらんぼのような透き通った赤色の爪が覗いていた。きれいな色やねと私がいうと祖母はいいでしょと得意げな顔をした。母が一緒に塗ったのだそうだ。

また、以前までずっと嫌がっていたデイサービスだが、若い今風の男の子がいると嘘のようにすんなりと行くのだそうだ。いくつになっても女性は女性なのだなと祖母を可愛らしく思った。

上等ねえ、綺麗ね、かわいいわね、よく似合ってるわ、いい色ね

以前から使っていた言葉を発するたびにその頃の祖母を思い出して懐かしくなる。そうした言葉から分かるよう、上品で、料理上手で、話し上手な明るい祖母はポジティブで褒め上手だった。何も覚えていなくたって、言葉遣いにそれまでの生き方が刻まれている。

私もいつか色んなことを忘れてしまうかもしれない。そう思うととても悲しいが、それでもしゃんとして綺麗な言葉遣いをしていたい。

帰り際、また祖母が見てと足元を指差した。いい色ね、綺麗ねと言った。祖母の爪は私のより生き生きとして明るかった。

土が湿った匂いの入り混じった涼しい風が吹いている。あんなにもいた蝉の声の代わりになんの虫かわからない虫が静かに鳴いている。もう秋が来る。何もできてない夏が終わる。

無力だ。

そう常々感じる。周りはどんどん走り抜けているのに、取り残されている。周りとの繋がりがない。いつからこんな風になってしまったんだろう。私が中心にいるような人物ではないから。人徳がないから。自分で動いてないから。ただその結果だろう。

もうすぐ先伸ばしていた社会に出る。自分の無力で無知を既に痛感している。要領が悪いのは昔から分かりきっていることだ。人の2倍やらねば、いや3倍やらねば追いつかない。常に向かい風が吹いている。しょうがない。食いしばって手を動かすより他はない。

言い訳をせず、さらっとやっているかのように見える、そんなかっこいい大人になりたい。歩みがどんなに遅くても、自分のことを見守っていけるように成長したい。

夕暮れの秋風がさらさらとやさしく撫でてくれたように感じた。